文京区をこよなく愛したC-C-Bのベーシスト 渡辺英樹さん

今日は2020年2月1日です。

本来なら、文京区出身の偉大なミュージシャンが還暦を迎えるはずの日でした。

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渡辺英樹さん。

80年代後半に世間を騒がせた大人気ロックバンドC-C-Bのリーダーであり、ベーシストであり、ボーカリスト。
C-C-B解散後もミュージシャンとして精力的に活躍され地域に貢献した、文京区が誇る英雄です。


C-C-Bは現在の40代~50代を中心に、昭和生まれの殆どの人は名前ぐらいは知ってるかと思います。
昭和後期を代表する名曲の一つである「Romanticが止まらない」のヒットと、髪をピンクに染めたメガネのドラマーがドラムを叩きながら歌うという斬新なビジュアルは、今でも大勢の人達の記憶に残っている事でしょう。

30代以下の人にはそれ程馴染みがないかもしれません。
せいぜい「Romanticが止まらない」ぐらいはちょっと聴いた事あるかな?って位だと思います。
(CCB吾郎とか電車男とかね^^;)

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渡辺英樹さんは1960年2月1日、文京区の根津に生まれました。(※出生病院はすぐ隣の台東区)
根津の地で幼少期から育ち、ミュージシャンを志し、ベーシストとして頭角を表し、後にC-C-Bの一員としてデビューし国民的な人気者となった後も、根津を拠点として活動を続けました。

英樹さんは文京区を、根津の街を心から愛していました。
C-C-Bが日本中を席巻し、やがてC-C-Bが解散し、また新たな音楽活動を始めてからもずっと根津の街が拠点でした。

芸能人ですので、長い年月の中で数年ぐらいは他区のマンション等に住んでいたこともありますが、ミュージシャンとなって人気者になった後もずっと、人生の殆どをご実家である根津で暮らしました。


そして2015年7月13日、渡辺英樹さんは大動脈解離を患い、55歳の若さでこの世を去りました。


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今でも彼の過去のブログがネット上に公開されています。
ところどころに根津神社や上野公園など、彼が生前に何度も訪れた、縁の周辺スポットの写真が掲載されています。
彼がいかに地元を愛し貢献してきたか、彼のブログを読めば一目瞭然ですね。


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英樹さんとは昔、仕事の関係で、お話させて頂く機会がありました。
C-C-Bが解散してからずっと後の話ですが、自宅が同じ文京区だった事もあり、文京区や周辺の思い出話が盛り上がった事をよく覚えています。

私が茗荷谷周辺に引っ越して間もない頃でしたので、文京区の事をよく知らなかった私に、英樹さんは雑談交じりに文京区にまつわる情報やご自身のお話を聞かせて下さいました。

今日は、その思い出話を少しさせて下さい。

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渡辺英樹さんの生家は、文京区根津で精米店を営んでいました。(※現在は閉店)
C-C-Bとして有名になった英樹さんは、各メディアで文京区根津出身である事や実家が精米店である事も公言していましたので、特にC-C-Bのアイドル的な人気絶頂時は自宅を訪れるファンの姿が絶えなかったそうです。

文京区と言えば日本有数の教育水準を誇る、教育熱心な家庭が集まる文教地区です。
ですが英樹さんは文京区に生まれながらも、どこか学歴社会に対して批判的でした。
彼の作った楽曲にも(CCBではないですが)学歴社会を批判した曲があります。

英樹さんは自身が生まれ育った文京区根津という街について、下町風情のある人情味溢れる温かい街として、雑誌やメディア等でファンの人たちに紹介していました。

80年代当時のCCBのファンは女子中高生が殆どですから皆、文京区=下町という英樹さんのイメージに素直に洗脳されていましたね。(私も勿論CCBのファンでしたよ^^)
当時中高生だった私にとっても文京区のイメージは、浅草や柴又のような粋でイナセな街という認識でした。
これも今思うと当時スーパーアイドルだった英樹さんの影響だったと思います。

文教地区であり教育熱心な街であるという事は、当時のCCBファンにはあまり知られておらず、私に至っては30を過ぎて文京区に引っ越してくるまで知らなかったですね。
その空気は実際に住んで体験してみて初めて実感しました。

根津は文京区ですが、ほぼ台東区との区境にあり、徒歩圏内である近隣の上野公園や動物園には幼少期からよく遊びに行っていたそうです。(羨ましい環境ですね^^)
大人になってからも、友人に周辺を案内する際には、やはり上野公園を散策する事が多いのだとか。


英樹さんがまだ学生だった頃は、白山や千石、大塚方面にも遊びに来ていたそうです。
大塚公園でもよく遊んだとか・・・(これは意外でした)
都立大塚病院についても何故か詳しかったです。

白山や千石、大塚周辺は当時の都立小石川高校の定時制に通っていた関係もあり、馴染みのある地区だそうです。
白山では飲食店でアルバイトもされてたみたいですね。

特に千石には友達がいたので、家によく遊びに行ってたそうです。
都営三田線の話になり「次は千石~、千石~というところが、次は~てんごく~てんごく~にしか聴こえないんだよね。」って、車掌さんの車内アナウンスを真似ていたのが印象に残りました。

英樹さんの自宅最寄り駅は東京メトロ千代田線の根津駅ですが、都営三田線もよく使用されていたみたいですね。
主に根津から近い白山駅を利用していたみたいです。


そんな地元ローカルな話を沢山話してくれました。
なんだか英樹さんがご近所のとても身近なお兄さんに感じました。

周辺住民しか知らないようなお話を聞けて本当に嬉しかったです。
TVや雑誌やライブでしか知らない英樹さんの一面を見る事が出来て、本当に貴重な体験でした。


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英樹さんには娘さんがいらっしゃいます。
当時はまだ小・中学生だった娘さん達のために、英樹さんは娘さんの通っていた区立小学校のPTA会長を務めるなど、積極的に学校行事等に参加し、地域に貢献していらっしゃいました。

某区立小学校の校長室には、歴代PTA会長の写真が飾ってあるそうですが、今もあるのかな?
当時の英樹さんはC-C-B時代よりも派手な金髪でしたから、その歴代PTA会長の写真の中で一際目立っている事でしょうね(笑)

英樹さんは大変子煩悩な方で、仕事帰りには娘さん達の好きないちご大福を買いに和菓子屋に立ち寄ったりしてました。
休日には娘さんたちと水入らずでピクニックやいちご狩りに出かけたり(親子でいちごがお好きなんですね^^)そんな微笑ましいエピソードをいろいろと聞かせてくれたりしました。

某区立小学校PTA会長時代には、文化祭でベーシストとして舞台で演奏した事もあるそうです。
当時の児童や保護者の方々、羨ましい限りです。
こんな素敵なPTA会長なら、私も率先して苦手なPTA役員にも積極的に立候補するのになぁ(笑)


英樹さんは精米店を営むご両親の意向で、小学校・中学校共に地元の区立小中学校ではなく、東大への進学率の高いと評判の文京区立誠之小学校→文京区立第六中学校へと越境入学されたそうです。
現在は文京区の小学校では越境入学は禁止されていますが、1960年代当時は可能だったそうです。

現在でも誠之小学校→第六中学→高偏差値の公立高校(昔は都立小石川高校一択でした)→東京大学と言えば、文京区公立エリートコースの定番ですね。
この進学コースは当時も今も東大合格者が大変多いのだとか。

学歴社会に批判的だった英樹さんの経歴を聞くと、なんだかとても意外な気がしました。
生まれも育ちも文京区で生粋の江戸っ子であり、この環境に育ったからこそ言える事、体験した事、色々と思うところがあったのだと思います。


英樹さんは第六中学卒業後、他区の高校に進学したのですが、バンド活動との両立が困難な為高校を中退し、後に当時の都立小石川高校の定時制に入りなおしています。
(ちなみにC-C-Bのキーボード担当の田口智治さんも同時期に小石川の定時制に入学されていますね)

都立小石川高校と言えば、現在は公立中高一貫校の最難関である東京都立小石川中等教育学校になってます。

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ですが結局、学歴なんて英樹さんにとっては何の役にも立たなかった様です。
学歴なんて頼りにせず、彼は自身の持つ才能と努力で腕を磨き上げ、その後はプロのミュージシャンとしての人生を歩む事になります。

15歳でベースを手にし、17歳で高校を辞め(※その後定時制卒業)バンド活動に専念し、19歳で某バンドのメンバーとしてデビュー、そして23歳でC-C-Bの前身であるココナッツ・ボーイズを結成し、メジャーデビューに至ります。


C-C-Bの「Romanticが止まらない」がリリースされたのは1985年の冬でしたから、英樹さんは25歳で社会的ブレイクを果たした訳です。

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英樹さんほどのベーシストとしての確かな腕前と魅力のある歌声、どこか中世的なルックスとタレント性や頭の回転の速さや話術があれば、学歴なんて全く必要ありません。
生まれも育ちも文京区である英樹さんは、悲しいかな文京区では異端児であった様です。

実際に私も茗荷谷に住んでみて、周辺のお受験熱や進学塾の勧誘等、学歴社会を勝ち抜くための様々な競争を、うんざりする程何度も目の当たりにしてきました。
当然、生粋の文京区育ちである英樹さんが、その現状を体感していないはずがありません。

そんな風潮の中で文京区在住の一番のメリットである学歴を身につけやすい環境に流されず、あっさりエリートコースへの道を投げ捨て、自身のスタンスを貫き、努力と才能で当時の歌謡界の頂点にまで登りつめました。

そう言えばCCB時代の英樹さん、いつだったかこんな事を言ってたっけ。
「ま、人間、学歴じゃねーよな(笑)」
軽いトークの中での発言でしたが、あの言葉の裏に潜む本当の意味が今頃になって理解できます。

彼の作った楽曲の中には「学歴社会の被害者」という歌詞が出てくる曲があります。
(※CCBではなくVothM名義の曲です)
その空気を体感した者にしか分からない苦悩や葛藤を、彼は楽曲で表現しています。

今も学歴社会の頂点を目指す人たちが続々と文京区に集まってきています。
そんな環境の中で、生粋の文京区民である英樹さんのミュージシャンとしての生き方は、そんな競争社会の在り方に一石を投じるような、そんな存在であり続けました。

学歴なんかよりもっと大切な事があると、英樹さんはその生き様で教えてくれました。
他人に流されず我が道を進む一本筋の通った生き方はファンの心を捉え、いつまでも色あせずに、今も人生に迷ったときの道標になっています。


文京区には文豪や教育者なら有名な方は沢山いますし、文京区に縁の在るタレントさん等有名人も沢山います。
ですが国民皆が知っているグループを立ち上げ、レコード大賞で金賞受賞し、紅白歌合戦に出場した人物、他にいますでしょうか?
(※1985年のNHK紅白歌合戦では、CCBの代表曲である「Romanticが止まらない」ではなく、英樹さんがメインボーカルを務める「Lucky Chanceをもう一度」が演奏されました)

日本武道館で満員御礼のライブを成し遂げた偉大なバンドのリーダーを務めあげた人物です。
こんな偉大な文京区民、私は他に知りませんね。


そして、英樹さんほど文京区を、根津の街を愛し、地元に貢献してきた有名人がいたでしょうか?

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C-C-Bは現在、英樹さんの早すぎる死によって活動停止状態です。
英樹さんが大動脈解離で倒れる翌日(2015年6月)本来ならC-C-B再結成ライブが全国ツアーで行われるはずでした。
英樹さんが倒れたあの日から、C-C-Bの運命は大きく変わります。

運命というものは皮肉なものです。
もしあのまま英樹さんが何事もなく、今も元気でいらっしゃったなら・・・。
予定通りライブが行われていたのなら・・・。

C-C-Bは今もこのリバイバルブームの波に乗り、完全復活を成し遂げ、今夜あたりは還暦バースデーライブを開催していたかもしれません。
「ヒデキ、還暦!」なんて言ったりして、持ち前の明るさで冗談を飛ばしていたんだろうなぁと思うと今でも涙が出てきてしまいます。

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根津の街を愛し、文京区に生涯貢献し続けた偉大なベーシスト。
大樹のような英雄だった渡辺英樹さん。

どうか、彼の名前をいつまでも覚えていて下さい。
機会があったら、彼の遺した数々の名曲を聴いてみて下さい。


彼の遺した功績は、文京区の歴史に永遠に刻まれることでしょう。



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